売れぬもの
マルクスは物の具体的な用途とその価格を分かつ。価格は量を計るのみ。老子は刻む前の塊に立ち戻る。計測が物の本質に最後の言葉を持つことを、ふたりは拒む。
物は、価格を持つ前に、まず実体を持つ。穀物は養い、鉄は支え、布は覆う――それぞれが、他の何ものにも代えがたい仕方で、そのものであるがゆえに。やがて交換が訪れ、それらを同じ秤に載せ、ただひとつ問う――いくらか? この問いは些細に見える。しかしそこには切断が働いている。穀物が鉄でないゆえんのすべてが、脇に押しやられるのだ。
マルクスはこの二重性を、『資本論』の冒頭から、あらゆる商品の核心に据える。
使用価値としては、商品はまず質を異にする。交換価値としては、量を異にするのみである。
同じ対象へのふたつのまなざし。使用価値として、物は具体的にあるもの――挽かれる穀物、纏われる衣服――であり、その有用性は、マルクスによれば、「商品の実体なくしては存在し得ない」。それは物質に結びつき、他の何ものとも共通の尺度を持たぬ。交換価値としては、物はただの量となる。これだけのものがあれば、あれだけのものと等しい。等価性を可能にするためには、まず比較不可能なものを消し去らねばならない。「交換においては商品の使用価値を捨象する」のであり、あらゆる交換関係は「まさにこの捨象によって特徴づけられる」。計測は嘘をつかない。それは捨象する。穀物と鉄から、両者を秤にかけられるだけの共通項を残し、それぞれが何であるかを語るには至らない。
こうして計算の縁には、なおもそこに入り込めぬ有用なものたちが残される。
物は使用価値でありながら価値でないこともありうる。人間にとって有用でありながら、人間の労働の産物でない場合がそれである。空気、天然の牧草地、未開の土地などがその例である。
空気、牧草地、穀物を育む大地――労働が結晶していないゆえに、価格を持たぬ有用性。すべての生産を支えながら、それを律する計測には映らない。すべてを支えるものが、秤の上では、まさに無である。
マルクスにおける使用価値とは何か
物の具体的な有用性であり、その実体の属性によって定まるもの。穀物は養い、衣服は覆う。それは質的であり、各々の物に固有で、使用においてのみ実現される。マルクスはこれを、純粋に量的な交換価値と対置する。交換価値はこの有用性を捨象し、物同士を比較可能にする。
しかしマルクスはなお、ひとつの閾を越えない。彼の争点は、使用を消し去る抽象化にあり、使用そのものにあるのではない。彼は物の実体を、それを覆う数字から守り、有用性を価格が離陸する堅固な地盤とみなす。そこから遠く離れた地で生まれた別の声は、この地盤に留まらない。
老子は、樸(ぼく)と呼ぶ――まだ刻まれざる木の塊、切断以前の全体を。第二十八章で、この賢者はそこに立ち戻る。
純朴に復帰する。純朴(道)が広がれば、万物が生まれる。
塊がひとつに保たれている限り、それは何ものにも特化せず、あらゆる形を潜在させている。それを道具に刻むとは、ひとつの物に固定し、他の可能性を失うことだ。マルクスが具体的な使用を、それを抽象化する価格から守るのに対し、老子はさらに遡る。有用な物への刻印すら、すでに全体からの転落なのだ。彼は使用を計測に対置しない。両者の手前、まだ分割されざる塊に立ち戻る。ふたつの異なる身振りと、その下にあるふたつの地盤――ひとつは物の個別の実体を、それを均す数字から救い、もうひとつは、そこからひとつの形を切り出す以前の全体を守る。
しかしその隔たりの下には、ひとつの同じ直観が息づいている。計測が均すとき――価格が穀物と鉄を通約可能にするとき――あるいは分割が分かつとき――塊が数えられる道具に刻まれるとき――、どちらも物の本質を語らない。穀物はその相場を超え、節くれだった木はそこから引き出される用途を超える。物が何であるかは、秤の上での価値も、それが果たす役割も超えている。現実は計測を超える。ふたつの手が、同じ数字のヴェールを引き剥がす――ひとつは物にその実体を、もうひとつはその全体を取り戻すために。
秤は穀物を量るが、それを育んだ畑も、刈り取った手も量らない。価格は木材を数えるが、百年かけて斜めに育った節くれだった樹木は数えない。数字が落ちたあとの皿には、いつも何かが残る――計測が決して触れ得なかったものが。
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引用出典
- Karl Marx, Le Capital, Livre I, 版 Maurice Lachâtre, 1872, 訳 Joseph Roy.
- Lao-Tseu, Tao Te King, 版 Imprimerie royale, 1842 (Wikisource), 訳 Stanislas Julien.