刃の通るところ
モランによれば、行為は世界の戯れに入った瞬間から、それを望んだ者の手を離れる。荘子によれば、良き刃は肉の緩むところにのみ通る。いずれも、己を超えるものに力を入れぬ術である。
同
同じ一振りの刃、十九年の間、切っ先に欠け一つない。恵王の料理人は、決して骨に刃を当てなかったからだ。関節に沿い、肉の緩むところを滑らせ、硬い部分を避けた。この喩えは遠い昔、古代中国の一工房から来たものだが、我々がまだ答えを出し得ない問いを突きつける。行為とは何か。ひとたび放たれた行為は、もはや我々のものではないとき、どうあるべきか。
なぜなら、すべての行為はそのような運命を負う。我々はその始まりを握るが、その後は我々の手を離れる。エドガール・モランはこの事実に一つの名を与えた——「行為の生態学」と。手を離れた瞬間から、行為はそれを取り巻く環境に取り込まれ、他の力と混ざり合い、時にはそれを望んだ者にも見分けがつかぬほどに変わるというのだ。
行為の生態学の原理は……行為が、それが介入する環境の相互作用・フィードバックの網に入った瞬間から、それを引き起こした者の意図(観念)から逃れ始めることを意味する。
行為の生態学とは何か
それは、エドガール・モランが提唱した考えで、一度始まった行為は、それを望んだ者の意のままにならなくなるというものだ。行為は相互作用とフィードバックの織物に入り込み、逸れ、逸らされ、時にはその意図に反する方向へと転じる。我々は初動を支配するが、その結果は決して支配できない。なぜなら世界は、我々の決断の下にある不活性な物質ではないからだ。
この認識が引きこもりを招くかと思えば、そうではない。モランは別の道を選ぶ。行為が我々の手を離れることを認めることは、手を引くことではなく、別の仕方で手を下ろすことを促すのだ。
したがって、行為の生態学は我々を無為に導くのではなく、そのリスクを認識した賭けと、行為を修正し、あるいは取り消すことさえ可能にする戦略へと招くのである。
この区別は微妙でありながら決定的だ。プログラムは外を見ずに命令を実行する。それに対し、戦略は道すがら修正し、現実が別のものを返せば方向を変え、時には放棄する。行為は、目を開いたまま保つ賭けとなる。モランが言うように、「不確実性の中にのみ行為は存在する」。我々に与えられるのは、決して約束されぬ結果ではなく、その帰還に対する注意の質なのだ。
二千年の時を隔てて、別の声が応える。荘子の料理人は戦略家ではない。彼は、牛を忘れたと言う。長年の経験の果てに、感覚は沈黙し、彼はただ解体の原理だけを見るようになったのだ。
漢文 日本語 牛の自然な筋目に従い、私の刃は入り、分け、柔らかな肉を断ち、骨を避け、仕事を自然に、労せずに成し遂げる。そして、それは摩耗しない。なぜなら、硬い部分に立ち向かわないからだ。[…]同じ刃が十九年使えるのは、ただ通るべきところにのみ通すからだ。数千頭の牛を解体しても、少しも摩耗しない。
両者の所作は同じではない。まずは区別しておかなければならない。モランは目的を持ち続ける。彼には「指針となる観念」があり、それを支える戦略がある。彼の洞察は、実行が自分の手を離れ、調整を要することを知ることにある。一方、料理人は目的を調整する必要がない。彼は対象を手放し、木目に従うのみだ。一方は不確実性の中で、修正の手を緩めぬまま行為する。もう一方は、現実と調和しすぎて、ほとんど修正する必要がない。無為——争わぬ行為。片や近代の洞察、片や観想の技。両者は互いに還元し得ない。
しかし、両者は一つの放棄において合流する。いずれも、意図の力だけで結果を支配できるとは信じない。一方は、世界がフィードバックの織物であるから知り、もう一方は、物質にはその筋目があり、力ずくで硬いところを通ろうとすれば、必ず摩耗することを知る。別の場所で見たように、十九年もつ刃と、取り消す用意のある行為は、力ずくを拒む同一の姿だ。「長く続く者は、控えめであれ。何事も極めず、常に中途に留まれ」と荘子は言う。これは優柔不断ではない。骨が刃に屈しないことを知る者の、適切な節度なのだ。
行為とは、それゆえ、計画を現実に押し付けることではない。己を超えるものに行為を委ね、それに寄り添うことだ。通るべきところに通し、世界が望んだものと異なるものを返せば、柔軟に方向を変える用意を怠らぬこと。
引用出典
- Edgar Morin, Terre-Patrie, 版 Seuil, 1993 (avec Anne Brigitte Kern).
- Tchouang-Tseu, Œuvre de Tchoang-tzeu, 版 Les Pères du système taoïste, 1913 (Wikisource), 訳 Léon Wieger.