the sacred hoop
le cercle sacré
世界と民の生きた形を、ブラック・エルク(*Heȟáka Sápa*、オグララ・ラコタ族)が『ブラック・エルクは語る』(1932年、ジョン・G・ナイハート編)の中で呼ぶ言葉——ただしこれは、記録された英語による表現であって、テキストに記されたラコタ語の単語ではない。*輪*(hoop)とは、幾何学者の抽象的な円ではなく、生きた形を宿すもの:円陣を敷いた野営地、そしてその中心に咲く一本の花の木。民は、切り離せる個々の集まりではなく、一つに繫がった輪としてある。その輪が保たれている限り、民は栄え、破れれば力は失われる——それは、成員を失うからではなく、形を失うからだ。ブラック・エルクの大いなるヴィジョンでは、自らの民の輪は、数多の輪の一つとして、溶け合うことなく一つの輪を成している。そして彼は、中心は唯一の場所ではないと断言する——「世界の中心はどこにでもある」。
all our power came to us from the sacred hoop of the nation, and so long as the hoop was unbroken, the people flourished. The flowering tree was the living center of the hoop, and the circle of the four quarters nourished it.
ブラック・エルクの言葉をネイハートが言葉にしたものだが、「聖なる輪」は便宜上のフランス語訳に過ぎず、ラコタ語の原語は示されていない。この訳語が埋める欠落は明確だ。フランス語には「円」(図形)、「共同体」(人々の集まり)、「循環」(時間の中の反復)はあるが、一つの民を一つの全体として保ち、生きた中心を持ち、その破綻が混乱ではなく死を意味するような形を指す言葉がない。
この概念は、近接する語と三つの点で異なる。まず、共同体との対比:輪とは構成員の総和ではなく、彼らを結びつけるものそのものだ。「四角い家では力が生まれない」とブラック・エルクは言う。直角の壁で仕切られた部屋では、それぞれが孤立するからだ。次に、循環との対比:輪には中心があり、花開くか枯れる木がある。単なる車輪はただ回るだけだ。さらに、唯一の中心という考え方との対比:大いなるヴィジョンでは、諸民族の輪は融合せずに一つの輪を成し、中心は全体を見渡す者の立つ場所すべてに存在する。
ヴィネ・デロリア・ジュニア(ダコタ)の聖なる地理学のように、これは平原の思想であり、意味を歴史ではなく空間の形に宿す。ただしその方法は異なる。デロリアが物語を場所に結びつけるのに対し、ブラック・エルクは力を無傷の輪に結びつける。また、モワルジャーライ(ンガリンジン)のバンダイヤン――人間をその一部とする生きた大地の身体――とも通じるが、ここでは身体ではなく、壊れれば死ぬ輪として捉えられる。