rio em coma
un fleuve dans le coma
アイルトン・クレナク(思索者、クレナク族)が語るドセ川についての言葉(『生は無用である』、2020年)。彼の村の上流で鉱滓ダムが決壊し、川は荒廃した。クレナクは、川が死んだとも「汚染された」とも言わない。川は*昏睡状態*にあるのだ。この言葉は、川を生きている側に留め置く——その生命が消え去ったわけではなく、ただ*中断*されている*川の身体*(<em>corpo do rio</em>)。それはまるで親族のように看取られ、喪に服され、その目覚めがなおも*想像可能*であるかのように。彼は川に対する責務をずらす。それは技術的な修復ではなく、その*身体*にのしかかるすべてを止めることなのだ。
Apenas um rio em coma nos separa da estrada de ferro.
リオ・エム・コマ (Rio em coma、ポルトガル語で「昏睡状態の川」)は、クレナク語の珍しい言葉ではない。これはアイルトン・クレナクがリオ・ドセ川のために作り出したポルトガル語の表現だ。出所は明確——この表現は彼のものであり、フランス語の「川が昏睡状態にある」という直訳もその旨が示されている。ここには先住民の言葉を装った借用など一切ない。この表現が再び注目を集めるのは、coma という単語にある。
フランス語が埋めようとしている欠落は、中間的な状態の不在だ。川に起こったことを表現する際、私たちの言語は二つの結論の間で揺れ動く。「死んだ川」(終わり、過去)か、「汚染された/劣化した水域」(修復・補償可能な資源の損傷)。しかし、どちらもクレナクが指し示すものではない。それは、消え去ったわけではないが、停止した命だ。Coma(ギリシャ語 kôma「深い眠り」に由来)は、まだ戻ることのできる死の縁を意味する。クレナクはさらに、corpo do rio(川の身体)や、村が「私たちのリオ・ドセ川を悼む」という言葉を使う——見守り、嘆き悲しむのは生者に対してだけだ。
文脈の中で。この言葉は、当然視されていたものを変える。技術で川を「回復」しようとする技術者たちに対し、クレナクは「川の身体に圧し掛かる人間の活動を、両岸100キロにわたって全て止め、川が再び生き返るまで待つべきだ」と答える。つまり、技術を追加するのではなく、川が戻るのを妨げているものを取り除くのだ。昏睡状態の身体は修理するものではない。見守り、その眠りを妨げるものを取り除くだけだ。
混同しないこと。Rio em coma は、ダヴィ・コペナワの urihi とは異なる操作だ。コペナワが「自然」という言葉とそれが作り出す対象を否定するのに対し、クレナクは対象そのものを否定しない——死ではなく昏睡を選び、川を、目覚めを待つ身近な存在として留め置く。二つの隣接した拒絶だが、混同してはならない。