名の下にあるもの
マルクス・アウレリウスは名が与える威光を物から剥ぎ取る。砂漠は賞賛にも侮辱にも耳を塞ぐ。名を取り去って、そこにあるものに至る二つの道。
同じワインでも、その名が告げられるのと無言で注がれるのとでは、味わいが異なる。先立つ名──高貴な銘柄、特選のヴィンテージ──がグラスに一種の光輪を投げかけ、まずその光輪を味わうことになる。物とそれについて語られる言葉との間には、評価が宿る隙間がある。古の精神は、この隙間を逆向きに渡る訓練を積んだ。名から物へと降りていくのだ。
マルクス・アウレリウスは、手帳の中で物をその素材だけで呼ぶ練習をする。「ファレルヌムは葡萄の汁。この紫衣は羊の毛に、貝の血で染めた色」。最も名高いワインも、地位の象徴たる衣も、彼はそれを構成するものへと還元し、威光は消え去る。物を軽んじるためではない。言葉が前に張り巡らすヴェールを取り払い、物をありのままに見るためだ。
私たちが注目し信頼するに値すると思われるあらゆる物事について、それらを剥き出しにし、その単純さと脆弱さの中に見つめるべきである。言葉が取り巻く虚しい威光を取り去って。この傲慢な華やかさは、極めて危険な欺きであり、対象がそれだけ価値あるように見えるほど、罠は深くなる。
この操作は精密だ。名は完全な嘘ではない。付け加えるのだ。羊毛と染料に、地位を。発酵した汁に、名声を。この余剰は物の中にはない。自然は高貴な銘柄も帝国の紫衣も知らない。ただ葡萄と貝があるだけだ。余剰は外から来る。「それについて語られることすべて」から。ゆえに威光は、まさに詐欺師である。物の性質であるかのように装うが、実は言葉の堆積に過ぎない。それを解体する眼差しは、指導原理──ヘーゲモニコン──の務めだ。表象を受け入れるのではなく、判断する。物をその単純さへと連れ戻すことは、貶めることではない。欺かれるのをやめることだ。
物をありのままに見るとはどういうことか
マルクス・アウレリウスにとって、それは物をその素材だけで描写することだ。それについて語られることが加える威光を取り去る。高貴なワインは葡萄の汁に戻り、紫衣は染めた羊毛となる。名は物を彩る。裸の描写はその単純さを取り戻し、眼差しは物になかった輝きに眩まされることをやめる。
威光は人に降り積もることもある。そのとき、それはもはや華やかさではなく、評判と呼ばれる。まったく異なる世界で生まれたもう一つの眼差しが、この堆積に抗った。エジプトの砂漠で、若い修道士が老いた師に、独りで生きる術を尋ねる。答えは一つの仕掛けを通じて示される。「墓地へ行き、そこにある死者にさんざん罵倒を浴びせなさい」。そして翌日、「彼らを祝福し、賞賛しなさい」。死者はもちろん、罵倒にも賞賛にも応えない。「彼らに倣いなさい」と師は言う。
彼らはあなたの罵倒にも賞賛にも動じなかった。あなたも彼らのように死になさい。どんなにひどい仕打ちを受けても怒らず、どんなに尊敬され賞賛されても驕らないように。そうすれば、あなたは聖化されるだろう。
修道士は評判を得ようとも、侮辱を避けようともしない。賞賛にも侮辱にも、死者のように動じない訓練を積む。なぜなら、賞賛も侮辱も、彼が何者であるかを語らない。ただ、彼について語られることだけを語る。空虚な栄光──ギリシアの伝統ではケノドクシア、「空しい栄光」と呼ばれる──はまさに、自分に降り積もる言葉への渇望だ。他者の眼差しを糧とし、それが与える名が現実を覆うかのように信じること。
しかし、二つの眼差しは異なる動作をする。マルクス・アウレリウスは欲望の対象を剥ぎ取る。ワインや紫衣をその素材へと連れ戻し、物は真に名づけられることで、欺く輝きを失う。砂漠は賞賛される主体を剥ぎ取る。人に対して語られることを聞こえなくし、自己は名によって膨らむことをやめる。一方は物の威光を解体して、誤った欲望を断つ。もう一方は自己の威光を解体して、そこに映る己を見なくする。そして、その土台は異なる。ローマ人にとっては自然──階級を知らず、ただ葡萄と羊毛を知るのみ。修道士にとっては別の眼差し、神の眼差しだ。人の声は、その前では無に等しい。素材へと還元することは、神に委ねることではない。同じ修練の二つの名ではない。
それでもなお、分かれた動作の下には、同じ直観が息づく。両者において、物について語られることは物そのものではない。名は外から来る余剰だ──ワインが帯びない威光、死者が感じない栄光。この余剰に留まることは、どこにもない輝きを欲しがり、最初の沈黙が否定する言葉で膨らむことだ。そこから解き放たれることは、両者において、語られることを取り去った後に残るものへと戻ることだ。高貴なワインの下にある葡萄、評判の下にある人間。同じ金箔を剥がす二つの手──一方は追い求める物に、もう一方は見せる顔に。
私たちを惹きつけ、傷つけるものの前には、一つの簡単な試練が残る。名を取り去り、何が残るかを見ること。言葉とともに消え去るものは、ただの言葉だった。言葉が沈黙した後に残るものが、物そのものだった。
引用出典
- Marc Aurèle, Pensées pour moi-même, 版 Germer-Baillière, 1876 (Wikisource), 訳 Jules Barthélemy-Saint-Hilaire.
- Macaire l'Ancien (Pères du désert), Vies choisies des Pères des déserts d'Orient, 版 Ad Mame, 1861 (compilation de Michel-Ange Marin), 訳 Arnauld d'Andilly.