ālayavijñāna
意識の貯蔵庫、能動的な意識(<em>vijñāna</em>)が根を下ろす動的な基盤。それは永遠の主体でもなければ単なる蓄積でもない。むしろ、心的現象を担い生み出す連続的な流れでありながら、それと区別されるものではない。引用にも強調されるその因果的役割は、経験を統合する原理であると同時に、実体性を逃れるものである。
Even so, Mahamati, if the evolving Vijnana are different from the Alayavijnana, even in its original form, the Alaya cannot be their cause.
以下は日本語訳です:
アーラヤヴィジュニャーナは、意識の底流を指し、精神的現象の受け皿であると同時にその源でもある。活動的な意識(ヴィジュニャーナ)が対象とともに生滅するのに対し、それは動的な基盤として、始まりも終わりも定められないまま持続する。引用文はその本質的機能を明らかにする:もし進化する意識が根本的に切り離されていれば、アーラヤヴィジュニャーナは因果的な力を失う。ゆえにそれは単なる受動的な容器ではなく、現象を顕在化させるエネルギーそのものでありながら、固定的な実体としては捉えられない。
この「意識の貯蔵庫」は、逆説的な緊張の中で機能する。それは実体的な「自我」ではない。絶えず変化しながらも、経験の連続性を保証するからだ。その統一性は実体のそれではなく、過去の行為の種子(ビージャ)が熟し、現在の知覚を生み出す流れの統一性である。引用された一節は、それを単なる活動的意識の結果に還元することを拒み、むしろその論理的な先行性を強調する:それがなければ、いかなる顕現も生じえない。かくしてそれは、現象の条件であると同時に産物でもあり、決して固定されることはない。
アーラヤヴィジュニャーナは、古典的な二元論を超越する。それは純粋な内在でも超越でもない。むしろ、その区別が消滅する場である。『ランカーヴァターラ』で言及されるその因果的性質は、意識がその表現から決して切り離されず、同時にそれを超えるという見方の中心軸となる。それは、精神の根源的な相互依存を体現する。そこでは、いかなる瞬間も底なしの基盤から生まれながら、それを支配する主体は存在しない。