記憶と伝承──生ける記録と書かれた記録

知とその媒体をめぐる二つの声

記憶と伝承──生ける記録と書かれた記録
ニコラ・プッサン『盲目のオリオン、日の出を求めて』(1658年)。メトロポリタン美術館、CC0。
支

点が与えられ、てこが与えられれば……。伝承の条件をめぐる思索は、この言葉に始まる。二つの声、二つの文脈、知の記憶を捉える二つの仕方。一方は実践や物語に宿る持続を重んじ、他方は言葉によって担われた知が文字に触れることで生じる効果を問う。どちらも唯一の解を提示しないが、それぞれの仕方で、伝えられるものと失われかけるものの行方を浮かび上がらせる。

てこと支点としての記憶

バティスト・モリゾが語る記憶は、単なる痕跡ではない。ここで問題となるのは古典的な意味での記録ではなく、生きとし生けるものに根ざした能動的な持続である。引用された一節は、そうした記録がいかなるものかを展開しないが、知が単に書き留められるだけでは足りないことを示唆する。彼が投げかける問いはこうだ──その知が消え去らないためには、何を支えとすればよいのか。

支点が与えられ、てこが与えられれば……。二〇一九年五月六日月曜、科学者たちは……

バティスト・モリゾ, Raviver les braises du vivant  — 版 フランス語原文による, 訳 viasophia

てこと支点の比喩は、伝承の力学を暗示する。知は保存されるべき内容ではなく、再び動かされるべき力なのだ。モリゾはここで、その知がどのように現れるのか──身振りか、物語か、非人間との関係か──を明らかにしないが、その存続は行為、介入にかかっていると示す。支点は与えられるものではない。見出されるか、創り出されるかせねばならない。

文字という道具、文字という危うさ

ダヴィ・コペナワの文字観は異なる角度から語られる。彼の文字へのまなざしには緊張が宿る。文字が自らの共同体の権利を守るために有用であることは認めつつも、批判的な距離を保っているのだ。引用された一節はヤノマミの口承の具体的な伝達様式を描かないが、必要とされる道具が決して中立ではないことを露わにする。

ダヴィ・コペナワは、自らの共同体の若者たちが白人の文字を使いこなし、権利を守る力を得られるようにと願った。しかしシャーマニズムの立場から文字やその知のあり方に対して抱く躊躇は拭えず、それでもなお、この試みの先頭に立った。

ダヴィ・コペナワ, La Chute du ciel  — 版 ブルース・アルベールによるフランス語訳(プロン『テール・ユマニテ』叢書、2010年)を底本とする" maison langSource="yanomami

コペナワは文字を拒絶しないが、その限界を指摘する。ここで「シャーマニズムの躊躇」は詳述されないが、文字が保存すると称する知を変容させてしまうことを示唆している。白人の文字は単なる道具ではない。それは異なる知のあり方を内包し、他の伝達様式と緊張関係に立つ。彼が始めた試みは、躊躇を捨てたわけではない。現実的な適応なのだ。

二つの支点、二つのてこ

両者の言葉は直接に応答しあわない。モリゾは知が持続するための支点を求めるが、その実体を明かさない。コペナワは道具──文字──の有用性と危険性を測りながら、伝承そのものの核心を文字に求めない。どちらも統合を提案せず、両者の接近を示唆することもない。

それでも共通する問いが浮かび上がる──知が遺物と化さないためにはどうすればよいのか。モリゾは知を再活性化せよと説くが、その方法は語らない。コペナワは外部の道具を用いるが、慎重に、口承と文字の緊張を解消するわけではない。どちらも断定しない。むしろ問題の条件を提示する──知は自ら保存されない。それを伝える手段は決して中立ではない。

残されるのは、両者が宙吊りにしたものだ。モリゾは、彼が待ち望むてこが文字を通じて実現されるのか、それとも文字を排除するのかを語らない。コペナワは、シャーマニズムの躊躇があらゆる記録の形に及ぶのか、それとも文字の特定の用法のみを対象とするのかを明らかにしない。両者の言葉は矛盾しないが、一致もしない。伝承の思索は、普遍の処方箋を拒み、具体的な条件から始まる空間を開く。

引用出典

  • Baptiste Morizot, Raviver les braises du vivant, 版 .
  • Davi Kopenawa, La Chute du ciel, 版 Plon, coll. Terre humaine, 2010, 訳 Bruce Albert (propos yanomami recueillis et traduits).