メガプロジェクト:大地と金属をめぐる二つの声

技術近代化とシャマニズムの冒瀆

メガプロジェクト:大地と金属をめぐる二つの声
ニコラ・プッサン — 『盲目のオリオン、日の出を求めて』(1658年)。メトロポリタン美術館、CC0。

メガプロジェクトは、単なる構築物ではない。それは、大地との関係性を問う営為である。技術的装置が土壌や河川、森林を変容させるとき、そこに何が起こるのか。二つの声、二つの語り方がある。一方は近代化を語り、他方は冒瀆を語る。どちらもメガプロジェクトを直接名指すことはないが、それぞれがその一面を照らし出す。大地を支配の対象とするか、それとも精霊が往来する場とするか。

終末をめぐる大地の行方

ブルーノ・ラトゥールは、第六講演において「終末の終わり方」を問う。彼はメガプロジェクトを描写しないが、その枠組みを描き出す。彼の分析する近代化とは、大地を技術的関心の対象へと変える過程である。大地はもはや背景でも資源の貯蔵庫でもない。それは、ある種の世界との関係性の存続がかかる場なのだ。

終末の終わり方(いかに終末を終わらせないか)

Bruno Latour, Face Ga a , 書 第六講演  — 版 フランス語原典に基づく, 訳 viasophia

この講演は、ダムや鉱山、道路について語らない。近代が自らの限界に直面する仕方について語るのだ。メガプロジェクトは、名指されずとも、その対峙を延長する装置として浮かび上がる。それらは解決策ではなく、症候である。支配に抗う大地を制御しようとする試みなのだ。ラトゥールは、大地が消滅するとは言わない。大地の消滅が問題の中心となったと言うのだ。もはや背景ではなく、主体なのである。

オママの金属と消えゆく大地

ダヴィ・コペナワは、別の消滅について語る。『天の落下』において、彼は工事現場を描かない。世界の均衡を保つオママと結びついた金属をめぐる宇宙論を語る。そこでは大地は搾取の対象ではなく、精霊が宿る空間である。メガプロジェクトは名指されずとも、その均衡を破壊する営みとして現れる。

我らが精霊の世界では、オママの金属について語る。なぜなら、それがなければ大地は消え、そこに住まう者たちも共に消えるからだ。

Davi Kopenawa, La Chute du ciel  — 版 フランス語訳『天の落下』(プロン社「テール・ユマニテ」叢書、2010年)ブルース・アルベールによるヤノマミ語口承の記録・翻訳に基づく, 訳 viasophia

コペナワは、金属が神聖だとは言わない。それがなければ大地が消えると語るのだ。風景としてではなく、人間と精霊が共存する世界として。採掘は中立的な行為ではない。それは大地を成り立たせるものとの断絶を意味する。メガプロジェクトは名指されずとも、その金属を奪い去る行為であり、それとともに、ある種の世界の住まい方を奪う行為なのだ。

大地を語る二つの仕方

ラトゥールとコペナワは、同じことを語らない。一方は、大地を技術的関心の対象へと変える近代化の過程を分析する。他方は、大地を生きた空間とし、金属をその維持に不可欠な要素とする宇宙論を描く。メガプロジェクトは、彼らの言葉の中心にないが、その両者の視点を体現する営みとして現れる。

ラトゥールにとって、それは近代という観念を延長する装置である。コペナワにとって、それは精霊との断絶をもたらす行為である。いずれにせよ、大地は単なる対象ではない。それは問われているものなのだ。

どちらも解決策を提示しない。ラトゥールは、いかに「終末を終わらせる」かを語らない。コペナワは、オママの金属をいかに守るかを語らない。彼らはただ、メガプロジェクトが大地を変容させるときに何が起こるかを示す。技術的支配か、精霊との断絶か。

残されたもの

二つの声は交わらない。しかし対立するわけでもない。メガプロジェクトが問うものを、二つの仕方で描く。ラトゥールは、近代の存続がかかった大地について語る。コペナワは、それを成り立たせるものを奪われたときに消えゆく大地について語る。

メガプロジェクトは、これらのテクストの中心ではない。しかし、その一例である。大地は決して単なる背景ではない。それは変容させられるものか、断絶させられるものかなのだ。判断も結論もなく、この二つの断片は、共通の場を求める前に、まず差異を際立たせる。

引用出典

  • Bruno Latour, Face Ga a, 版 .
  • Davi Kopenawa, La Chute du ciel, 版 Plon, coll. Terre humaine, 2010, 訳 Bruce Albert (propos yanomami recueillis et traduits).