儚きものの記録:デジタルの沈黙に抗う生の痕跡
消えぬ記憶のための二つの声
記録する。この言葉は、埃っぽい書庫、果てしない書棚、擦り切れた装丁に触れる指の感触を呼び起こす。しかし、生きとし生けるものそのものが儚くなったとき、何を記録すればよいのか。痕跡がサーバーの沈黙に消え、大地への絆がネットワークの抽象に溶け去るとき、何を残せばよいのか。二つの声が響き合う。完全には重ならないまま。一方は社会技術的な基盤から語り、他方は森と精霊の側から。一方は私たちが所有すると信じるものを問い、他方は失いかけているものを。
歴史性なき大地
彼らは確かに約束されたこの大地に対する権利を有しているように思える――they feel entitled――が、この大地はもはや地上的なものではない。否定されているのはまさに、それが歴史を、歴史性を、フィードバックを、能力を、つまりは作用する力を持っているということなのだ。
ラトゥールは矛盾を指摘する。私たちは自分たちをentitled――正当な所有者、権利者――と信じているが、その大地はもはや地上的ではない。それは背景となり、貯蔵庫となり、欲望を投影する滑らかな表面となった。欠けているのは、まさに大地を大地たらしめるもの――歴史性、フィードバック、作用する力。つまり、その厚みだ。記憶なき大地は抵抗なき大地だ。それは消費され、デジタル化され、記録されるが、その代償は何か。
ラトゥールが提案する記録学は単なる保存ではない。絆の再活性化である。データ、プロトコル、関係性の集合体である社会技術的ネットワークは、無機的な対象ではなく、生きた関係を記録するために機能しうるのか。ただし、痕跡とそれが指し示すものを混同しない限りにおいて。アマゾンの森林のデジタル地図は森ではない。鳥の歌の録音は、それが響く夜明けではない。問われるべきはどのように記録するかではなく、何を記録するかだ。データか、それともデータを意味あるものにする作用する力か。
ザピリの記憶
「なぜ私は戦い続けるのか」。家の無線が新たな戦線を呼びかけるとき、ダヴィはいつでも出発する用意がある。たとえそれが精霊の世界、森、川から遠ざかることになろうとも。
コペナワは記録について語らない。生存について語る。彼が守ろうとする記憶は倉庫ではない。流れだ。ザピリ――森、川、夢に満ちる精霊たち――は言葉によって、ましてやバイトによって捕らえられるものではない。彼らは世界の条件そのものだ。彼らを失うことは、忘れることではない。世界が崩壊することだ。
なぜ戦うのか。なぜなら、戦うたびにダヴィはザピリから、森から、川から遠ざかるからだ。なぜなら、都市への旅、白人との交渉は一時的な裏切りだ。しかし必要な裏切りだ。彼を呼ぶ無線は中立的な道具ではない。橋であり、罠だ。つなぐが、引き裂く。伝えるが、歪める。
ザピリの記憶は記録される必要がない。彼らはすでにそこにいる。木々の中に、水の中に、身体の中に。彼らは保存される必要がない。なぜなら、彼らこそが救うものだからだ。危険は忘却ではない。無関心だ。デジタルの沈黙はザピリにとって脅威ではない――彼らはサーバーなど必要としない。脅威は、私たち人間が、世界を私たちが捕らえたものに還元してしまうことだ。
持続するもの
ラトゥールとコペナワは同じことを語っていない。一方は抽象によって実体を失った大地を描き、他方はあらゆる媒介に抗う精霊に満ちた森を語る。しかし、共通する緊張が彼らを貫いている。閉じ込められない記憶をいかに生かし続けるか。
ラトゥールにとって、答えは絆の記録学にある。痕跡を保存するのではなく、関係を文書化することだ。生態系の対立を示す地図は、そこに働く作用する力を明らかにするとき初めて有用となる。絶滅危惧種の目録は、その種が生態系の中で果たす役割を語るとき初めて意味を持つ。デジタルは道具となりうる。ただし、地図と領土を混同しない限りにおいて。
コペナワにとって、答えはより根源的だ。記憶は記録されない。生きられる。ザピリはデータではない。存在だ。彼らは保存を求めない。聞かれることを求める。森はセンサーを必要としない。私たちが森に変容されることを受け入れることを必要とする。
二人の間には、一つの問いが残る。すべてを救うと信じるとき、私たちは何を失うのか。デジタルは痕跡の不死を約束する。しかし、絆なき痕跡は亡霊に過ぎない。作用する力なき記録は墓場だ。
提案
ラトゥールは、記録を絆のネットワークとして考えることを提案する。博物館ではなく、実験室として。保存ではなく、再活性化として。データは、それを支える関係を可視化するとき初めて価値を持つ。汚染の地図は、責任を明らかにするとき初めて有用となる。儀礼の録音は、その生きた機能を想起させるとき初めて意味を持つ。
コペナワは、記憶を生態系として考えることを提案する。倉庫ではなく、共生として。保存ではなく、共生として。ザピリは保存されるべき対象ではない。聞かれるべきパートナーだ。森はデジタル化される必要がない。私たちが森に依存することを受け入れる必要がある。
二人の間には、狭い道がある。裏切らずに記録する。絆をデータに還元せずに文書化する。精霊を言葉に閉じ込めずに聞く。生の痕跡を残しながら、それが私たちを超えていることを忘れない。
おそらく解決はどのようにではなく、なぜにある。なぜ記録するのか。忘れないために。しかし、何を忘れないのか。事実ではない――事実ならすでにサーバーにも本にも溢れている。私たちを結びつけるものを忘れないために。大地を背景にせず、森を資源のストックとせず、精霊を迷信と見なさないために。
デジタルの沈黙は宿命ではない。選択だ。すべてをデジタル化しないという選択。ある種のものを記録から逃れさせるという選択。世界は私たちなしでも存在するが、私たちは世界なしでは生きられないことを思い出すという選択。
引用出典
- Bruno Latour, Face Ga a, 版 .
- Davi Kopenawa, La Chute du ciel, 版 Plon, coll. Terre humaine, 2010, 訳 Bruce Albert (propos yanomami recueillis et traduits).