希望:幻想か抵抗か? 未来の真実を巡るユートピアと予言

時間の糸の上に立つ二つの声

希望:幻想か抵抗か? 未来の真実を巡るユートピアと予言
ニコラ・プッサン — 『盲目のオリオン、日の出を求めて』(1658年)。メトロポリタン美術館、CC0。
希

希望の言葉は決して軽くはない。そこにはまだ存在しない未来の重みが、すでに現在にのしかかっている。アマゾンの森から響く声とヨーロッパの書庫から聞こえる声は、希望を必要と同時に危険なものとして語る。一方は希望を前に進む力とし、他方はすでに崩れ落ちつつあるものを見えなくするものとする。この二つの極の間に、一つの問いが残る――約束と崩壊をいかにして抱え続けるか。

希望としての原動力

希望には単なる願いを超えたエネルギーがある。それは受動的な待ちではなく、まだ存在しないものへ向かう能動的な緊張だ。与えられた現在には、すでに未来の萌芽が宿っている。何も固定されていない。何も決定的に閉じられていない。最も即物的で、最も確かなものの中にさえ、何かが働き、何かが道を進み続けている。

それどころか、現在性の中に未来を含むものは、容赦なくその道を進み続ける――過去のあらゆる形態を超えて、前景的現在性や地平線の環境においてさえ。

Ernst Bloch, The Principle of Hope  — 版 フランス語訳に基づく, 訳 viasophia

この、未来がすでに現在に潜んでいるという考え方は、世界の見方を変える。私たちの前にあるのは白紙のページではなく、動き続ける風景だ。その細部の一つ一つに、やがて訪れるものの痕跡が刻まれている。だとすれば、希望は現実からの逃避ではなく、現実を別の仕方で読み解く方法となる。存在するものを否定するのではなく、その中に閉塞への抵抗を見出すことだ。

しかし、この見方には危険も伴う。もし未来がすでに芽生えているのなら、なぜわざわざ行動する必要があるのか。希望が現在に根ざしていなければ、それは空虚な待ちとなり、何の見返りも求めない約束に変わってしまう。

希望としての幻影

反対側には、希望を幻想として語る声がある。それは一時的な誤りではなく、もっと深く、もっと危険なものだ。ここでは希望は前進の力ではなく、破壊の現実を覆い隠すものとなる。それは、すでに開きつつある扉――必ずしも望ましいものではない未来への扉――を見えなくする。

660──シャワラリ・マエとは「疫病の存在の道」、シャワラリ・ペリヨカとは「疫病の存在の道の扉」のことだ。

Davi Kopenawa, La Chute du ciel , § 660  — 版 フランス語版『空の落下』(プロン社「テール・ユマーヌ」叢書、2010年)に基づく, 訳 viasophia

コペナワの言葉は直接希望について語らないが、その輪郭を否定的に描き出す。彼が語るのは、病いへ、断絶へ、崩壊へと続く道だ。存在すべきではない世界へと開かれる扉。この視点では、希望は原動力ではなく、覆い隠すヴェールとなる。それはすでに起こりつつあること、すでに失われつつあることを隠してしまう。

しかし、この不信感の中にも、ある種の抵抗がある。希望を拒絶することは、必ずしも未来を諦めることではない。それは、壊れつつあるものを無視した約束に身を委ねないことかもしれない。それは、ありのままのものに根ざし、ありうるものに流されない方法なのだ。

共通の頂

この二つの声は出会わないが、同じことを語っている――現在と未来を同時に抱えることの難しさを。ブロッホにとって未来はすでに現在に働いている。コペナワにとって未来は脅威であり、破壊へと開かれる扉だ。しかしどちらの場合も、時間は直線ではなく、もっと複雑で、もっと脆いものだという考えがある。

希望が力であれ幻影であれ、それは常に視線の問題だ。生まれつつあるものを見て、死につつあるものを無視しないにはどうすればよいか。まだ存在しないものへと歩みながら、すでに崩れ落ちつつあるものにつまずかないにはどうすればよいか。

おそらく答えはユートピアにも予言にもない。この緊張そのものの中にあるのだろう。抵抗するものと崩壊するもの、希望するものと見つめるものを、同時に抱え続ける力の中に。そして、未来がどのようなものであれ、それは常に選択の問題であることを忘れないことだ。運命ではなく、責任なのだ。

引用出典

  • Ernst Bloch, The Principle of Hope, 版 .
  • Davi Kopenawa, La Chute du ciel, 版 Plon, coll. Terre humaine, 2010, 訳 Bruce Albert (propos yanomami recueillis et traduits).